理系の人ならば理屈っぽいだろうと思い込まれている理由

iwatam さんのコラムから始まって、はやしさんのblogのコメント欄でも議論されてる、理系と文系の違いについてのお話。ちょっとおもしろかったので、自分なりに考えてみたことをまとめてみる。あと、モノづくり的視点がないのはさびしいよね。たぶん iwatam さんが物理系っぽいからか。

結論から言うと、理系が理屈っぽいと思われる理由は教育の問題、もっと言うと知の習得プロセスにあると、今のところ僕は思っている。なんでそう考えているのかってことを下に適当に書いてみる。

理系の学問に携わるから理系な人なのかっつったら、まぁそうなんじゃないのって意見の一致が得られるとおもうので、いわゆる理系な学問、文系な学問ってところから始めよう。

んで、理系と文系の線引き問題について。ぶっちゃけそんなんムリでしょ、っつーのが僕の見解ですが、これだと思考停止なので、おもいっきりぶった切ってみる。

理系
研究対象に再現性がある
文系
研究対象に再現性がない

これでどうだ。なんとなくそんな感じがしませんか?もいっちょいってみる。

自然科学系
(再現性のある)自然現象が研究対象
社会科学系
(再現性のある or ない)人間の社会活動が研究対象
人文科学系
(再現性のない)人間の内面現象が研究対象

どうよ。社会科学系が理系と文系にまたがってるのはアリだよね。アリってことにしてください。

で、理系と文系の方法論的差異について。そんなもんは無い、と断言してみる。考察、検証の前提となる研究対象についての知見(観察による事実とか内省とかに相当)っつーのは、それが妥当だという(同業者の)見解の一致を必要とされているってことが大事になっている。んで、妥当な知見に基づく妥当な考察(論理的考察ね)と検証(妥当な検証によってのみ、結果えられる知見が妥当と認められる。)により得られる新規な知見があらたな研究のスタートになる。このサイクルは研究だけじゃなくてもっと一般的な思考プロセスだと思うんだが。ちなみに、ここの妥当ってのが一個でも抜けると、トンデモになります。

っつーことで、考察と検証をひとまとめに考証とすると、理系だろうが文系だろうが、「妥当な知見+妥当な考証=新たな妥当な知見」という思考活動になるはず。ポイントなのは知見と考証。ここで書いてる知見、考証っつーのはこういうこと。

知見
知識、経験、記憶、つまり knowledge
考証
論理的考察、実験や検証、つまり logic

まともに頭を使うには、知見と考証の両方が必要なんじゃね?

でもって、理系と文系に話をもどす。中学、高校あたりの理系科目、文系科目が上で書いた研究分野としての理系、文系の基礎になってるとすると、

理系科目(理系の人)
再現性がある
知見(個別の事象や法則)の数はそれほどない。
必然的に考証スキル習得のウェイトが大きくなる。

文系科目(文系の人)
再現性がない
知見がめっちゃ多い。
必然的に知見スキル習得のウェイトが大きくなる。

という感じで強引にどうだろう。

理系が理屈っぽいと思われている理由は、中学高校で理系が考証=論理的思考= logic を習得している間に、文系は覚えなきゃいけないことが多すぎるから、っつーことです。そんな十代の刷り込みってことで。

あぁ、大学?大学は遊ぶところでしょ。大学でまじめに勉強してれば、理系は理屈っぽいとか言わない。